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■律宗 りっしゅう
戒律を研究する仏教宗派なのですが、日本ではあまり研究、実践されてもいなかったのだが、753年に鑑真が来日し唐招提寺を拠点として 戒律研究に専念した。これが日本における律宗の始まり。





■浄土真宗 じょうどしんしゅう
浄土宗祖である法然の弟子 親鸞 が浄土宗を継承発展した日本仏教の宗派。戦国時代などには「一向宗」「門徒宗」と呼んだ時期もある。 また、親鸞自身は宗派独立を意図しておらず、あくまでも後世での動きである。
よく浄土真宗を「真宗」と呼称しているが、これは略称ではなく「真の仏教」という意味で使われているものなので間違えないようにしたいところ。



浄土真宗は信者数が圧倒的に多く、また系列寺院まで含めて全国に22000箇寺程度存在している巨大宗派です。それ故に宗派内宗派も多岐に渡りますが、 主なものは以下の通り。

浄土真宗本願寺派 西本願寺 [京都]
真宗大谷派 東本願寺 [京都]
浄土真宗遣迎院派 遣迎院 [京都]


■浄土宗 じょうどしゅう
阿弥陀如来を本尊とし、専修念仏を教義の中心とする日本の仏教宗派で、法然(1133〜1212)によって開かれたもの。



現在は 鎮西派西山派 に分かれている。

鎮西派総本山 華頂山知恩教院大谷寺 [京都]
鎮西派大本山 芝増上寺 [東京]
金戒光明寺 [京都]
百萬遍知恩寺 [京都]
善導寺 [福岡]
光明寺 [鎌倉]
西山禅林寺派総本山 永観堂 禅林寺 [京都]
西山浄土宗総本山 粟生光明寺 [京都]
西山深草派総本山 誓願寺 [京都]




■天台宗 てんだいしゅう
大乗仏教の宗派のひとつ。日本における宗祖は伝教大師最澄(767〜822)。ちなみに中国では(538〜597)を開祖とする大乗仏教。総本山は滋賀県大津市にある比叡山延暦寺

日本では奈良仏教(南都六宗)と言われる法相宗・華厳宗などの小乗仏教が先に入り、天台宗といった大乗仏教が後から伝えられたが、中国での発祥は大乗仏教が先で小乗仏教の方が 後からできたため、奈良仏教との間で軋轢が生じていた。

その後、第5代天台座主の円珍(智証大師)の弟子達は比叡山を降りて三井寺に移り寺門派を形成。比叡山を中心とする山門派と三井寺を中心とする寺門派(天台寺門宗)が並立している。

天台三聖
伝教大師[最澄]
慈覚大師[円仁]
智証大師[円珍]



■真言宗 しんごんしゅう
日本仏教の宗派のひとつだが、もとは中国青龍寺の密教。日本における宗祖は弘法大師空海(774〜835)。現在は各派に分かれているが、開宗した当時は修禅道場を奈良県高野山金剛峯寺、根本道場を京都府教王護国寺(東寺)とした。




現在の分派は以下の通り。カッコ内は総(大)本山。古義新義
分 宗 派 総 本 山
高野山真言宗 金剛峰寺[和歌山]
東寺真言宗 教王護国寺[京都]
真言宗善通寺派 善通寺[香川]
真言宗醍醐派 醍醐寺[京都]
真言宗御室派 仁和寺[京都]
真言宗大覚寺派 大覚寺[京都]
真言宗泉涌寺派 泉涌寺[京都]
真言宗山階派 勧修寺[京都]
信貴山真言宗 朝護孫子寺[奈良]
真言宗中山寺派 中山寺[兵庫]
真言三宝宗 清澄寺[兵庫]
真言宗須磨寺派 須磨寺[兵庫]
真言宗智山派 智積院[京都]
真言宗豊山派 長谷寺[奈良]
新義真言宗 根来寺[和歌山]
真言律宗 西大寺[奈良]

■臨済宗 りんざいしゅう
もとは中国禅宗五家のひとつ。日本における宗祖は栄西(1141〜1215)。鎌倉時代に日本に伝わり、建仁寺の開山に始まる。




現在の分派は以下の通り。カッコ内は総(大)本山。
分 宗 派 起源 総本山
建仁寺派 1202−栄西 建仁寺[京都]
東福寺派 1236−円爾 東福寺[京都]
建長寺派 1253−蘭渓道隆 建長寺[鎌倉]
円覚寺派 1282−無学祖元 円覚寺[鎌倉]
南禅寺派 1291−無関普門 南禅寺[京都]
国泰寺派 1300?−慈雲妙意 国泰寺[富山]
大徳寺派 1315−宗峰妙超 大徳寺[京都]
向嶽寺派 1378−抜隊得勝 向嶽寺[山梨]
妙心寺派 1337−関山慧玄 妙心寺[京都]
天龍寺派 1339−夢窓疎石 天龍寺[京都]
相国寺派 1392−夢窓疎石 相国寺[京都]
永源寺派 1361−寂室元光 永源寺[滋賀]
(明治以前は東福寺派)
方広寺派 1384−無文元選 方広寺[静岡]
(明治以前は南禅寺派)
佛通寺派 1397−愚中周及 佛通寺[広島]
(明治以前は天龍寺派)

■曹洞宗 そうとうしゅう
もとは中国禅宗五家のひとつ。日本における宗祖は道元(1200〜1253)。ただし、道元は自らの教えを「正伝の仏法」として宗派名を名乗ることを禁じている。しかし、第四祖瑩山紹瑾から 「曹洞宗」を名乗るようになった。曹洞宗内では、道元を高祖として永平寺開山、瑩山を太祖として総持寺開山としている。

 


現在の分派は 宗内は有道会・永平寺派總和会・総持寺派 に分かれており、内局部長・宗議会議員などは各派同人数で構成され、また宗門代表も各派代表が2年交代で就任している。

※曹洞宗五老峰 天童如浄・道元・孤雲懐奘・徹通義介・瑩山紹瑾

■日蓮宗 にちれんしゅう
日本仏教宗派のひとつ。宗祖は日蓮(1222〜1282)。諸派は相当数あるが、主なものとしては、下記の通り




分 宗 派 総本山など
日 蓮 宗 池上本門寺[東京]
身延山久遠寺[静岡]
顕本法華宗 妙満寺[京都]
本門法華宗 妙蓮寺[京都]
法華宗本門流 本能寺[京都]など4箇寺
法華宗陣門流 本成寺[新潟]
法華宗真門流 本隆寺[京都]
日蓮宗不受不施派 妙覚寺[岡山]
不受不施日蓮講門宗 本覚寺[岡山]
日蓮正宗 大石寺[静岡]
日蓮本宗 要法寺[京都]

■法相宗 ほっそうしゅう
南都六宗のひとつ。もともと大本山は興福寺薬師寺法隆寺 であったが、戦後に法隆寺、清水寺が離脱し、残った2寺が大本山となっている。 に分かれており、内局部長・宗議会議員などは各派同人数で構成され、また宗門代表も各派代表が2年交代で就任している。

■華厳宗 けごんしゅう
華厳経を究極の経典とする宗派で、日本に伝来したのは736年、審祥によって伝播した。その審祥が東大寺に招かれて講義を行ったのを契機として 東大寺が華厳宗大本山となった。東大寺の大仏は華厳経上、仏を超越した存在とされている盧舎那仏像となっている。


■黄檗宗 おうばくしゅう
臨済宗・曹洞宗に次ぐ禅宗で、これら二宗派が日本風に変化していったため1654年に正統派の禅宗を伝えるということで 中国臨済宗(明朝末期)より隠元隆g禅師を招き京都宇治の萬福寺を開山した宗派。




1874年に明治政府教部省が黄檗宗を単独宗派として認めなかったため臨済宗黄檗派に併合、1876年に再び黄檗宗として独立した経緯があるため 臨済宗と黄檗宗は今でも比較的近い関係にある。


■時宗 じしゅう
一遍上人によって興された浄土系宗派ではあるが宗派意識は極めて弱く、集合体的な印象です。そもそも時衆と呼ばれていて「宗」を名乗ったのは 江戸時代からとされています。
特徴は「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と書かれた札を配って歩く「賦算」と盆踊りの原型と言われる「踊念仏」です。
また、本山については、四代目を巡って無量光寺・当麻道場[相模原市]と清浄光寺・藤沢道場[藤沢市]に分裂したが、後の趨勢は藤沢道場になったようです。




■修験道 しゅげんどう
日本独特の宗教で、山岳などに篭って厳しい修行を行うことによって「験(しるし)」を得ることを目的としている。 その修行をする者を山伏という。
ただし、歴史的には、江戸時代に修験道法度が施行されて真言宗系の当山派、天台宗系の本山派に区別され、 明治に至っては神仏習合により修験禁止令が出されて禁止となった。
神仏習合による被害を抑えるためか、神道色を強めて生き残ったものには御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などがある。 現在では仏教系も認められ、主としたものには金峰山修験本宗(吉野・金峯山寺)・本山修験宗(京都・聖護院)・真言宗醍醐派(京都・醍醐寺三宝院) などがある。




■京都五山 きょうとござん
五山とは、禅宗における寺院格式であり、日本の場合は主として臨済宗の格式を指し、当初は鎌倉に、後に京都にそれぞれ五山制度が存在した。

最初は鎌倉幕府によって導入された鎌倉五山

後に倒幕運動をした後醍醐天皇による京都五山

足利尊氏が建武新政より離脱したため足利尊氏による京都五山

足利義満の相国寺創建により足利義満による京都五山

詳細に記せばそれぞれの政治的時代背景により格付けの変更が行われているが、それは歴史のサイトに譲り、大まかには下記のような体系を以って 京都五山と認識されています。

別格 南禅寺 左京区南禅寺福地町86
第一位 天龍寺 右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
第二位 相国寺 上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701
第三位 建仁寺 東山区小松町584
第四位 東福寺 東山区本町15丁目778
第五位 万寿寺 1434年の火災以後東福寺に吸収される


■鎌倉五山 かまくらござん
五山とは、禅宗における寺院格式であり、日本の場合は主として臨済宗の格式を指し、当初は鎌倉に、後に京都にそれぞれ五山制度が存在した。

別格 南禅寺 京都市左京区南禅寺福地町86
第一位 建長寺 鎌倉市山ノ内8
第二位 円覚寺 鎌倉市山ノ内409
第三位 寿福寺 鎌倉市扇ヶ谷1-17-7
第四位 浄智寺 鎌倉市山ノ内1402
第五位 浄妙寺 鎌倉市浄明寺3-8-31


■甲府五山 こうふござん
臨済宗の熱心な信者だった武田信玄は、京都・鎌倉の五山制度を模して甲府にも同様なものを作ろうとした。 それは「御城附御祈願所五山」と呼ばれるが、現在では簡略化して甲府五山・府中五山などと呼ばれている。
この信玄の政策により、甲斐国の古刹5寺が甲府に移転となり、また同時に宗派を臨済宗妙心寺派に改宗させた。
第一位 長禅寺 甲府市愛宕町208
第二位 東光寺 甲府市東光寺3-7-37
第三位 能成寺 甲府市東光寺町2153
第四位 円光院 甲府市岩窪町500-1
第五位 法泉寺 甲府市和田町2595


■旧社格 きゅうしゃかく
明治維新後に国家が神社を管掌するために作られた社格制度のこと。戦後に国家管掌から外れたため、現在ではこの制度は存在しない。ただし、神社の格の目安として今でも旧社格として使用されているところがある。

神社は大きく分けて祈年・新嘗祭などに国から献納物を受けるものを特に「官社」、都道府県以下から献納物を受ける「諸社」に大別され、「神宮」というのは、これらの上に位置する。

官社はさらに神祇官が管轄の官幣社と地方官が管轄する国幣社に大別される。それぞれに大中小に詳別されている。

官幣大社 上賀茂・下鴨・岩清水八幡宮・平野神社など
国幣大社 三重県の多度大社など
官幣中社 北野天満宮・貴船神社など
国幣中社 神奈川県の鶴岡八幡宮など
官幣小社 沖縄県の波上宮など
国幣小社 神奈川県の箱根神社、長野県の戸隠神社など



■門跡 もんせき
門跡とは、元来は開祖の正式な後継者という意味ですが、平安時代、宇田天皇が仁和寺で出家し、御室を造営して住み、御室門跡と称して以来、 代々、皇族や公家などが出家して寺主となる寺につく称号に転化し、皇族や貴族とかかわりが深いことを示す用語となっていきました。


■小松原の法難 こまつばらのほうなん
1263年、伊豆に流されていた日蓮が許され、翌年に故郷の鴨川に帰って母に会いに行った後、天津の領主である工藤吉隆へ訪問した帰途を狙った東条景信が 日蓮を襲撃した事件。弟子の鏡忍房と工藤吉隆は殺害され、日蓮も額を切られる重傷を負った。


■建永の法難 けんえいのほうなん
むかーしむかし、京都の鹿ヶ谷というところに住蓮さんと安楽さん(敬称略)というお坊さんがおりました。このお二人が「往生礼讃」と呼ばれるお経にリズムを加えて歌を 完成させた。(六時礼讃声明)これがとっても美しかったのでお参りした人の中には出家したいと思う人たちも沢山した。ただ、その中に、時の権力者「後鳥羽上皇」にとて も可愛がられていた松虫姫さんと、鈴虫姫さんの姉妹がいたそーな。この二人は美人だったため、他の女性達からの嫉妬も厳しくとてもお辛かったそうな。 そのため、上皇さんが熊野にお参りに出かけた隙をみて法然さんのお話を聞きに行き・・・・もう念仏しかない!!!・・・・と思ったらしく、その後とうとう夜に御所を出て 安楽寺で出家して尼僧になってしまわれた。

これを聞いた上皇さんは怒り心頭!! この野郎! と言わんばかりに住蓮さんと安楽さんの首を切ってしまったのです!!! そればかりでなく、彼らの先生にあたる法然さんを 香川県に、親鸞さんを新潟県に流してしまわれた。これが建永の法難と呼ばれるものです。





■龍口の法難 たつのくちのほうなん
日蓮は仏教を学んだ結果、法華経こそが本物の仏教であると説き、諸他宗を強く批判・否定。また立正安国論を著して 法華経を信奉しない、護持しない幕府には必ず国難が降りかかると説いたため幕府より龍ノ口刑場にて処刑されることとなる。 しかし、処刑しようとしたところ天に雷鳴轟き、その刀をへし折った。

実際のところは北条時宗夫人の懐妊による恩赦と言われ、日蓮は佐渡へ流される。

1271年、北条時宗の治世





■ 松葉ヶ谷の法難 まつばがやつのほうなん
立正安国論の中で、日本で起きている災いは邪教信仰によるものであり、国家は法華経を護持信奉すべきだと説いた。 このため、当時の最大信者数を誇る浄土信者が幕府の要人を巻き込んで日蓮を襲撃した事件。
書物らよれば、1260年7月16日で襲撃犯は数万に及んだとある。しかし、白猿が現れて日蓮を非難させて 下総国中山へ逃れた。(白猿伝説)

■大原問答 おおはらもんどう
1186年に顕真(後の天台座主)の懇請によって法然が各仏教宗派学匠を集い開いた集会のようなもの。出席者は、
東大寺・重源/三論宗・明遍/法相宗・貞慶/天台宗・智海
などで、彼らに対して本願念仏を力説した


■塔頭 たっちゅう
そもそもの意味は偉い僧が没した後に、その弟子達が師を偲んで墓の周りに小院をむすんだものを指していたが、 徐々に大寺院を取り囲む小規模寺院、別坊のことを指すようになってきた。また、大名などが信じる寺院の周囲に小寺院を建立することもあり それも塔頭と呼ばれる。


■天文法華の乱 てんぶんほっけのらん
日蓮宗が京都に強い勢力を確立していた所に、一向宗徒の入洛が噂されたため、信徒らは細川晴元らと結んで これを撃退。一層京都における日蓮宗徒の勢力が拡大した。
これを快く思わない比叡山との対立構図ができはじめ、日蓮宗徒と比叡山僧との宗教問答で比叡山僧が敗れたことをきっかけとして 1536年に比叡山僧兵が日蓮宗各寺院を破却した事件。以降6年間日蓮宗徒は入京禁止となった。


■血天井 ちてんじょう
関ヶ原の合戦前夜、徳川家康は上杉景勝討伐に向かうため、鳥居元忠以下380名に伏見城を守らせていた。その虚を狙っていた石田三成軍が伏見城を攻撃。鳥居元忠は石田三成軍を京都に足止めさせるため奮戦し落城の際に鳥居元忠ら約380名が自刃。鳥居元忠らの遺骸は関ヶ原の合戦が終わるまで約2ヶ月、伏見城に放置され、その血痕や顔や鎧のあとが縁側の板に染み付き、いくら拭いても洗っても落ちなくなった。
そこで、縁側からその板を外し、供養のため寺に移した。その際に床を、足で踏む床板にしては供養にならないからと、天井にして手厚く供養しているものがいわゆる「血天井」として京都各地に今も残っているのである。

血天井のある寺院は以下の通り

養源院 浄土真宗 東山区三十三間堂廻り町656
源光庵 曹洞宗 北区鷹峯北鷹峯町47
正伝寺 臨済宗 北区西賀茂北鎮守庵町72
宝泉院 天台宗 左京区大原勝林院町187
興聖寺 曹洞宗 宇治市宇治山田27

■関東十八檀林 かんとうじゅうはちだんりん
江戸時代初期に定められた浄土宗の僧侶学問所18寺で、江戸時代では浄土宗僧侶育成はこの18寺に限定されていたという。

増上寺 武蔵国 東京都港区芝公園4-7-35
伝通院 武蔵国 東京都文京区小石川3-14-6
霊巌寺 武蔵国 東京都江東区白河1-3-32
霊山寺 武蔵国 東京都墨田区横川1-3-22
幡随院 武蔵国 東京都小金井市前原町3-37-1
蓮馨寺 武蔵国 埼玉県川越市連雀町7-1
勝願寺 武蔵国 埼玉県鴻巣市本町8丁目
大善寺 武蔵国 東京都八王子市大谷町1019
浄国寺 武蔵国 さいたま市岩槻区加倉1415-1
光明寺 相模国 神奈川県鎌倉市材木座6-17-19
弘経寺 下総国 茨城県結城市西町1591
東漸寺 下総国 千葉県松戸市小金359
大巌寺 下総国 千葉市中央区大巌寺町180
弘経寺 下総国 茨城県常総市豊岡町甲1
大光院 下総国 群馬県太田市金山町37-8
常福寺 常陸国 茨城県那珂市瓜連1221
大念寺 常陸国 茨城県稲敷市江戸崎甲2650

■南都七大寺 なんとしちだいじ
奈良時代に朝廷の保護を受けていた七つの寺のこと。解釈によって属する寺の判別が分かれている。例えば法隆寺は地理的に遠いので代わりに唐招提寺、四大寺からの派生という考えで 西大寺の代わりに川原寺というのがそれである。

興福寺 法相宗 奈良市登大路町48番地
東大寺 華厳宗 奈良市雑司町406-1
西大寺 真言律宗 奈良市西大寺芝町1-1-5
薬師寺 法相宗 奈良市西ノ京町457
元興寺 真言律宗 奈良市中院町11
大安寺 高野山真言宗 奈良市大安寺2丁目18-1
法隆寺 (旧法相宗) 斑鳩町法隆寺山内1-1
唐招提寺 律宗 奈良市五条町13-46
川原寺 明日香村川原1109

■高月観音まつり たかつきかんのんまつり
滋賀県湖北地方にある高月町(2010年1月1日に長浜市と合併)で行われる祭りで、正確には「観音の里ふるさとまつり」と言われている。 開催は毎年8月の第一日曜日の一日だけ。
高月だけでなく、湖北一帯は仏像・観音様が点在していて知る人ぞ知る土地。また京都などと違って寺院というよりも集落を形成する民衆の方々によって 守られてきたので、宗派を離れ、無住の寺などがほとんど。ただ、その分味わい深い仏像を見ることができる。
また、普段これらの仏像を見ようとすると、それぞれの担当集落の当番になっている方々に事前に予約を入れなければならなかったりするため、 この祭りの時以外に見ようと思うと自分も現地の方も大変です。

なお、寺というより集落の集会場に近い状態だったり、神社の神宮寺的に存在しているものがあるため、ナビやネットの地図では探せないものも多い。

2009年 高月観音まつり資料[PDF]

■関三刹 江戸三箇寺 かんさんさつ えどさんかじ
徳川幕府が宗教統制のために講じた施策の一部。多くの地方農家や武士が信仰する曹洞宗の統制を図るため 関三刹を組織して関東の宗務を司ることとした。また永平寺の住職もこの中の住職経験者から選出された。
江戸三箇寺とは、これらの配下寺院で江戸内の曹洞宗を司った。

■関三刹

大中寺 栃木県下都賀郡大平町西山田
總寧寺 千葉県市川市国府台
龍穏寺 埼玉県入間郡越生町
■江戸三箇寺
總泉寺 東京都板橋区小豆沢
青松寺 東京都港区愛宕
泉岳寺 東京都港区高輪


■安珍・清姫伝説 あんちんきよひめでんせつ
928年の夏のお話。福島県白河に住む、とてもイケメンな一人の僧が熊野詣に向かっていた。その道中の牟婁というところで宿を借りたのだが、 ここには娘がいて、この僧を一目ぼれしてしまい夜這いまでかけた。
そう言われても熊野詣の道中なのだから、「はいそうですかー」という訳にもいかず、「帰りに寄りますから勘弁してください」と ひとまず時をかせいだ。とは言っても僧からしてみればその気もないので帰りに寄る事も無く帰路についた・・・・

さあここからが大変だ。騙されたことを知った娘は僧を追いかけ、奈良の上野で追いついた。しかし僧は嫌だと娘を金縛りにしてくれるように 熊野さんに頼んで、その間に逃げようと画策した。娘の怒りはここに絶頂を向かえ、とうとう蛇身になって僧を追いかけた・・・・
・・・こういう話は今も昔も変わりまへんなあ・・・・

これはたまらないと僧は道成寺に逃げ込んで鐘を下ろしてもらい隠れたが、娘・・・といっても蛇だが・・・は鐘に巻きついて火を吐き、 鐘もろとも僧を焼き尽くした・・・

■天海 てんかい
天海・・・別の名で「慈眼大師」「黒衣の宰相」と呼ばれる。出生・出自がはっきりしない人物で相模の三浦氏の家来血筋であるとか、 室町幕府第11代将軍・足利義澄の子であるとか、明智光秀が生き残っていて天海となったのだとか、かなりミステリアスな話が多い。

変遷としては、出家後、宇都宮市にあった粉河寺で天台宗を学び→比叡山→三井寺→興福寺と移動。信長の比叡山焼き討ちにより寺を追われたところを 武田信玄に招聘されて甲斐へ移り、後に群馬県太田市にある長楽寺→埼玉県川越市にある喜多院と変遷する。最後は上野寛永寺を創建。

家康のブレーンとして活躍し、家康死後は家康を「権現」(山王一実神道)として祭ることを主張。「明神」(吉田神道)として祭ることを主張した金地院崇伝と 対立したが、豊臣秀吉が豊国大明神として祭られたことなどを理由にして天海の主張が取り入れられた。そのため東照宮も久能山から日光に改装された。

入定は記録によると104歳程度とされ、相当な長寿であったとされている。

■真名野長者伝説 まなのちょうじゃでんせつ
むかしむかし豊後国に炭焼小五郎という青年が住んでおりました。時を同じくして大和の都には玉津姫という姫がいましたが、顔にアザができて心病み、 三輪明神に治癒祈願していたところ、豊後国にいる炭焼小五郎と契りを結べば末は長者になれるであろうとお告げを頂いた。

その通りに長者になり、ひとりの娘が生まれた。名を般若姫といい、その美貌は遠く大和の都にまで伝わるほどであったらしい。そのため橘豊日皇子が妃にしようと 豊後へ下向し契りを結んだ。しかし、宇佐八幡が皇子の許に現れ、早く都へ帰られよと告げられたため、皇子は大和へ帰ることとなった。

その際に、すでに妊娠していた般若姫を残していくことになってしまったため、「子が男なら跡継ぎとして子と共に都へ、女なら長者夫婦の跡継ぎとして残して般若姫のみ都へ」と いい残して豊後を去るこことなった。

その後、子が生まれたが女の子であったため、子を両親に預けて般若姫は大和へ向かうべく臼杵の港より都へ向かった。しかし海は荒れ姫は周防大畠へ漂流。地元民の介抱 むなしく亡くなってしまう。それを悲しんだ両親(長者)が資金を投じて永久に仏の姿を残したいと石仏を彫らせた。それが臼杵の石仏である。